こうして安心して生活できるのも
戦争で多くの方が 日本を守って下さつたお蔭
朝の氏神様にご挨拶は、日頃の感謝に手を合わす日々
そう言えば、我家には、戦死された方は居ないのですが、
村で亡くなった戦没者の方のお名前を書いて
祖母たちが 毎月お供えをしていました。
子供の頃から戦争は遠いもので、私には関係ないし っと
どこかで 客観的に見ていた私が、
まさか、戦争で亡くなった方を探す旅にでるなんて
人生は、本当に不思議なめぐりあわせです。
戦没者の遺骨収集隊
以前から 頼まれていたものの・・・。
別に、私でなくてもいいやん。
他の人が行けばいい
うちには、戦没者が居ないし
正直そう思っていました。
でも、
自分ではどうする事も出来ない辛い、悲しい 出来事が
起こらなければ
決心して 旅に出ていなかった。
今日、改めて考えてみると
あの時の辛い、悲しい 自分ではどうする事もできない出来事があったから
決心して その旅に行けたんだなぁ~ と
やっとあのなんとも思い出すだけで
心がギュっと痛くなる 辛い過去を
完了すると決めました。
その旅に出ていないと 私は大嫌いだった梅と 関わる事もなく
あの旅のお蔭で、尊い梅干しを なんとしても これからも伝えていきたい!
あの英霊さん達の想いを伝える。
そう決心する 梅との出会いの旅でした。
私が旅に出たのは戦後50年から始まった旅で
あれから30年 英霊さん達の魂しが 蛍になって灯りを灯してくれていると
あの時に見た パプアニューギニアの蛍の木は 今も忘れません。
真っ暗な山の中に クリスマスツリーのように 蛍が辺りを照らしてくれている。
「生きて帰ぬ ニューギニア」 と ガダルカナル陥落後 沖縄、本土の防波堤となるべく 20万人の兵士が送られて
18万人が亡くなり、 ほとんどが、戦闘ではなく 餓死 で 亡くなったと
かれらは、戦場で蛍の木に宿って 今も眠っていると 教えてくれた。
無事生還されたおじいちゃん達と 一緒に遺骨を集めては 現場で慰霊祭を
その当時ご一緒してくれたおじいちゃん達も あの世に行かれ
淋しくなりましたが、 お友達や 上官と再会している事でしょうね・・・。
毎年、終戦記念日は、私が 梅と出会えた日になりました。
多くの方の命をいただきながら 今こうして生かされている
その事を忘れない為に
残りの人生、真剣に生きます。